土方巽-夏の嵐

土方巽-夏の嵐

土方巽・燔犧大踏鑑「夏の嵐」プロジェクト

AFC(秋田フィルムコミッション研究会)主催の作品先行試写会のご案内

貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
このたび、東北秋田が生んだ世界的天才舞踏家、故土方巽氏のデジタル記録映像「2003〜1973土方巽・燔犧大踏鑑『夏の嵐』」71分が完成致しましたことをご案内させていただきます。

 

映像内容の主要部分は1973年、京都大学西部講堂で行なわれた土方巽主演、振り付けによる「暗黒舞踏派」の未発表カラーフィルム(8ミリ)を、デジタル変換の上、各種補正を行ない、当時の舞台模様を、細部まで再現したものです。更に、土方の舞台の構成の原体験といったものを探るべく、雪の秋田、海底、空撮などを織り交ぜております。

 

土方は世界ですでに伝説化している天才ダンサー「ニジンスキー(1888?〜1950)ロシア」、そしてニジンスキーを始め、各分野の天才芸術家の才能を引き出したプロデューサー「ディアギレフ(1909〜29)ロシア」の才とをひとりで持った男とまで言われます。その弟子達は綺羅星のごとく、現代文化の最先端をになっています。そして土方の始めた「暗黒舞踏」は「BUTO」として、世界中に広まり、辞書にさえ載っている用語です。

 

土方の活躍は、これまでに多くの書物、写真、映像で、紹介されてきましたが、今日まで、京都での舞台活動が本格的に紹介されたことは無く、特に、「関西で初めて舞った」とい事実はその見事な完成度と共に、、脅威の動員記録を実現しました。現在になっては舞踏研究家にとって、貴重な「世界的財産」の発掘とまで期待されてきました。土方巽の最後の舞踏の実態は、この作品を通してはじめて詳しく知ることが出来ます。

 

音楽には、当時学生でありながら、土方の舞台での演奏を行ない(’73・9月「静かな家」パルコ西武劇場)「30年間、土方さんにやり残した借りが残っていたような気がずっとしていた」という ガムラン(バリ島)の奏者として有名なYAS-KAZが新曲で、30年間の思いをぶつけています。

 

この作品(映像記録)が、これまで発表されなかった理由は、荒井に有ります。

 

興行を引き受けた荒井(東映京都撮影所・映画監督)が助監督として初めて土方に会ったときの、「ついに出合った」という衝撃から、東映映画での自己監督作品への「暗黒舞踏派」の出演(芸術監督・土方巽)だけではもの足らず、土方の踊る舞台公演の実現と「彼の記録映画を作るのだ」いう思いから公演と撮影をを実現させたものです。
公演後、念願のフィルムの編集を自ら行なったものの、その結果について「これではまだ土方に負けている」と思い、未発表のまま封印してしまったからでした。
定年後、フィルムの保存缶を整理したところ、多量の土方フィルムがその缶の中に詰め込んでいたことを発見し、さらに、色彩が、当時の雰囲気を依然として残してていること、そして、当時の編集が、決して、間違っていたものでなかった(たとえば、土方の場合、ほんの数カットの編集の仕直しです)ことを知り、京都上演三十周年を記して、今回の完成、公開への道程についた訳です。

 

又、添付の土方略歴に見るごとく、1973年は、土方が踊った最後の年であります。
このころ、京大では、依然、全共闘運動の残り火といったものが文化運動の形をとり、、京大西武講堂も学生団体の連合が自主運営していて、唐十郎氏、佐藤信氏らのテント芝居などがよく行なわれ、そうした中でも、「土方巽」の名は一種畏怖の念を持って口にされていました。こうして学生と、映画人が一緒になって実現した舞台の記録のほとんどがカラーで再現されることは、土方と暗黒舞踏を語る上で、欠くことのできない必須の記録として、今後長く伝えられることと存じます。
今回、七月一日には、現地ロケをサポートしたAFC (秋田フィルムコミッション研究会)が内覧試写を、ささやかに全国に先駆け、行なうこととなりました。作品がデジタル映像であるため、VHSでの試写となりますが、土方とその弟子達、そして土方を生んだ風土の発する熱磁力といったものは、感じ取っていただけるものとひそかに自負しております。
すでにAFC代表、武田守からご案内が差し上げられたことと存じますが、改めて、ニュース・リリースとして、土方の略歴を添え、改めて、ご案内申し上げる次第です。

 

なお、首都圏方面に起きましては、デジタル映像を大スクリーンに拡大して、果たして上映に耐えるか、又、夜間屋外にスクリーンを設置できるかなど、技術的なテストを行なうべく、協力社を当たっているところです。今回の内覧試写会は、ほんの小さな火種ですが、これを手始めに全国各地の方々と協力しながら、全国巡回上映を企図致します。、そして燃え盛る火が海を越え、世界各地に広がっていくことをことを目指しての取り組み、その第一弾であることを付け加えさせて頂きます。
この作品は、日本文化交流基金の援助を受けて製作されたものであることを、申し添えます。
(土方巽略歴)

土方巽略歴

1928年(昭和3年)
秋田県秋田郡旭川村(現秋田市)11人兄弟の10人目(六男としてうまる)九日生(くにお)と名づけらる

 

1945年(昭20)
秋田工業卒(ラグビー部の暴れん坊であった)

 

1946年(昭和21年)
秋田製鋼入社。傍ら、増村克子(江口隆哉門下)で、ノイエ・タンツを習得

 

1949年(昭和24年)
21歳 一次、上京 「大野一雄舞踏公演」を見て衝撃を受ける

 

1950年(昭和25年)
旭館(秋田市大町6丁目)で、友人と「月の浜辺」を踊る

 

1952年(昭和27年)
24歳 上京 増村克子舞踊研究所に通う

 

1953年(昭和28年)
安藤哲子(のりこ)舞踊研究所入門。テレビ・ショーやダンス・ショーに出演以後、バレー活動を進める

 

1958年(昭和33年)
バレエ・パントマイム「ハンチキキ」で、ヨネヤマママコ、大野一雄と共演  芸名:土方巽

 

1959年(昭和34年)
5月 31歳。全日本芸術舞踊協会、第6回新人舞踊公演で「禁色」を大野慶人と発表
大スキャンダルとなる。三島由紀夫との交流が始まる
9月、<六人のアバンギャルド>で<禁色>代に第二部発表。他に、黛敏郎、諸井誠、
若松美黄、ドナルド・リチー  など

 

1960年
10月 第二回650 Experience の会で「マルキ・ド・サドによる「聖公爵」<暗黒舞踏>を発表

 

1970年(42歳)
第一回京都公演「ギバサ」

 

1972年
1月  第二回京都公演「ギバサ」「売ラブ」「スサメ玉」「残念記」
10月 第二次暗黒舞踏派結束記念「四季のための二十七晩」(アートシアター新宿文化、連続公演

 

1973年(45歳)
6月 第三回京都公演(本記録) 
9月 西武劇場のための15日間「静かな家」(こけらおとし)
10月 大駱駝艦・旗揚げ公演「陽物神旦」特別出演、ソロ10数分

 

以後、自らは踊らず、弟子の指導に当たった

 

1986年、肝硬変、肝臓ガンにて死去。享年57歳。

 

「燔犧大踏鑑」とはどういう意味で名づけられたのか。

 

辞書には、燔=火であぶる、犧=生贄と有り、「自らの身を焼き舞踏神に捧ぐ舞踏」というぐらいの意味でしょうか。(荒井) この題名は、若い詩人「高橋睦郎」によるもので、巾2メートルの題字は 三島由紀夫の揮毫です。(作品に収録しました)

 

 

舞踏と舞踊(ぶよう)はどう違うのか

 

「舞踊=舞い(廻り)踊=躍る、飛び上がる」の意味から、「踏む」という動作、風土をみずからのダンスとして名付けたといえましょう。(荒井) (本公演で、一度だけ飛び上がる土方の所作が見られます。) また、この違いは、日本の伝統の踊りと自らの踊りの違い、 西洋のバレー(つま先で立つ、上昇志向)に対し、がに股で、他の草取りをやるような日本人の自然な姿こそこの踊りだという、メッセージが強くこめられていると思います。(がに股論は、合田成男「舞踏―肉体のシュールリアリストに詳しい。」(荒井)

 

 

土方の弟子とは、どんな人々か。

 

麿赤児、俳優、舞踏家 「大駱駝艦」主催 現在(七月)、アメリカ巡業ツアー中
唐十郎 俳優、作家 (芥川賞受賞) 劇団赤テント「唐組」主催
和栗由紀夫 舞踏家 「好善社」主宰。母校、慶応大で新入生歓迎の無料公演、約90分を演出、主演
玉野黄市 舞踏家 「ハルピン派」主宰。 在サンフランシスコ。
田中泯 舞踊(ぶよう)家 「舞踊団・桃花村」および「舞踊資源研究所」 主宰
ビショップ山田 舞踊家 「北方舞踏派」主宰
雪 雄子 同 在南津軽
室伏 鴻 ソロ舞踏家
中島 夏 舞踏家
芦川羊子 舞踏家 「幻獣社」「白桃房」を結成。現在「友恵しづねと白桃房」にて活動
小林嵯峨 ソロ舞踏家
森 繁哉(私淑)ソロ舞踏家、 大学教授 在山形

 

 

孫弟子達

 

麿赤児「大駱駝艦」より
天児牛大 「山海塾」主宰、世界的にもっとも売れている
ミゼール花岡 インスタレーション・コラボレーションダンス(在 ベルリン)
カルロッタ池田 「アリアドーネの会」主宰 在 フランス

 

 

渋谷街頭のscreenの大きさは?

 

正 面 ヨコ 11・6メートル タテ 8・7メートル
左右二面 ヨコ 8・6メートル タテ 6・4メートル
添付の土方のアップは、この正面のスチール写真です。
(資料作成には、映像内に記した参考図書、ならびに、慶応義塾大学アートセンター 土方巽「舞踏」資料集によりました)

 

土方巽
土方巽

舞踏映像作品 「今、なぜか、どうしても土方巽」

企画趣旨

 

1973年、土方巽・京大西部講堂での舞踏公演の記録フィルム(8ミリ)は未公開のまま保存されてあった。
この舞台は、土方巽自身が出演、舞台演出を行なった最後の年にあたり、舞台全体の最後の記録である。

 

今、舞踏は世界的評価を受けながらも、大きな転換期を迎えようとしている。
舞踏からコンテンポラリー・ダンスへの転換はそのひとつである。
この時期に土方巽の「暗黒舞踏」の実際を再現しつつ2003年(映像完成時)の日本、そして世界各地での各種イベントに参加、あるいは自主興行を行なうなど「土方巽」をよみがえらせることは、ひとつの時代の節目を作るという意義があり、かつ、作品を研究資料としてできる限り忠実な再現版として記録保存することは世界の舞踏・ダンス界に対する歴史的な意味を背負った責務でもあろう。

 

構成案

 

全体として1973年の舞台映像を極力編集的テクニックを抑えた形で、舞台を忠実に再現するものをヴァージョンAとする。ここでは、音楽も当時のものを調査、再使用することを考える。
ヴァージョンBは、さらに公演当時のスナップ写真も一部分構成に取り入れ、時代の雰囲気も伝えたい。また、この作品が2003年という現在性を背負って登場する
証として「現在と土方」という実写映像セクションを附加する。
この作品は1973年の記録映像であり、同時に、2003年の「舞踏映像」である。
「現在と土方」は別途構成案を用意する。
仕上がりは約85分を予定する。
(附)映像作成のプロセス

 

@ 保存8ミリフィルムの点検(終了)
A フィルムのビデオ化テスト(横シネ・育英社で終了)
B 保存スナップの密着焼きと演目別分類(第一次終了)
C 8ミリ素材のディジタルビデオ化(京都・吉岡映像研究所)
D スナップ素材のディジタルビデオ化(東映アニメーション株式会社)
E ディジタル・ビデオ編集(東映東京撮影所)
F 「現在と土方」ビデオ撮影(ロケーション、秋田、東京・渋谷)
G 総編集(東映東京撮影所)
H 音楽・音声素材の作成、選択 (スタジオ未定)
I タイトル作成
J FD(東映東京撮影所)
K完成試写

撮影風景

荒井 美三雄監督より、秋田が生んだ舞踏家「土方 巽」の映画を制作する、というお話を頂きました。
AFCは、監督、スタッフと撮影現場に同行いたしました。
H15年2月20日・21日・22日は、土方巽の出身校「秋田工業高校」と雄勝郡での「雪の表情」他を撮影、 同年 5月16日・17日・18日に、岩館でのキバサの撮影、秋田市の空撮ロケを行いました。
土方巽
ヘリコプターに機材を積みます。

 

土方巽
床下に空いてる穴に、カメラをセッティング。

 

土方巽
準備完了

 

土方巽
秋田の空へ

 

土方巽
撮影終了、すぐにテープをチェック。(右が荒井監督)

 

土方巽
空港内の事務所に戻って、モニターでチェック

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